Just the way we are
ずっとずっと「特別」でありたかったなぁ、って思います。
私には何か特別なちからとか、能力があるんじゃないか?あってほしい!と思ってました。
映画でも超能力モノとかスーパーヒーロー系が大好きで、私だったらどんな能力がいいかなとか、ずっと考えてるような子だったなぁ。今でも考えてるか(笑)
だから、正直に言うと、自分が軽度の発達障害だって診断された時、なんとなく嬉しかったんです。
社会人になって苦労してきたことも多かったし、メンタルを崩して辛かったから、嫌なことが多かったはずだけど、発達障害って聞いて浅はかにも嬉しかったんですよね。
発達障害っていうと、何か突出した能力があるイメージもあったり、サヴァン症候群のような人たちも少ないかもだけどいらっしゃるわけで、私にももしかしたら特殊な才能が眠っていて今から目覚めるのかも!?と期待したんですよね。
私にも特別なところがあった!
ほら、私はただの出来ない子じゃなかったのよ。
私をイジメた、邪険にした、傷つけたあいつら。
やっぱりあいつらの方が間違ってた。
私は正しかった。ずっと正しかった。
そんな思いが、本当は胸にあったんです。
でも、本当のところは、そんなに甘いものじゃなかったんですね。
現実には私は「精神障害者」として認定され、いろんな補助を受けたり、今の仕事も障害者雇用で続けてこられてます。有難いことにたくさん世の中に助けてもらってます。
でもそれと同時に、「障害者」という言葉で、自分で勝手に苦しくなるという状態にも陥ることが増えていきました。
有難い、生かしてもらっている、けれども同時に、みんなと同じにはなれない、私は種類が違うんだ、私はみんなより劣ってるんだ…
自分で勝手に苦しんでいった結果、私は発達障害に「理由」を求めるようになりました。
私が発達障害で生まれたのには何か特別な理由があるはずだ。私にしかできない使命があるんだ。
そして、それはまたスピリチュアルへと繋がっていきました。
自分はやっぱり特別であるはずなんだ、でなきゃ、でなきゃ割に合わない。
そうやって理由を探し続けた結果、行き着いたのは、「発達障害は脳の特性であり、特殊な能力を保証するものでも、卑下するものでもなく、ただ私の一部である」ということでした。
10年近く、いろんな形で勝手に苦しんできたけども、私はただ「私」であって、その特徴として「発達障害」がありました。
生活に困るところは工夫していけばいい、得意なことはやっていけばいい、ただ、それだけ。
ただ、それだけのこと。
だって、私たちはみんなが「特別」で「唯一無二」で、みんなが素晴らしくて、みんながちょっとダメで(笑)
We are absolutely stunning just as the way we are.
ただ、「自分自身」であり続けるだけ。私の場合は、私の中に発達障害という部分があっただけ。
ただ、それだけ。
自分が特別である証明を、何かに求めるのはやめよう。
私が今生きていることこそが、私が特別である証明なのだから。